●荒れ狂う海原●

 

手をかざせば電子地図も情報も、品物すらも手に入る。
マネーすら自分に埋め込まれた『情報』の中にあるのだ。
喉が渇き、宙のウインドウをタッチしてドリンクを注文する。電子便で即座にその場に冷たいドリンクが届けられた。
のどを潤しながら住宅区からポータルで商業区へ出ると散策を始める。
どんなに情報と通信が発達しても、娯楽としてのウィンドウショッピングは文化的になくなることはない。現物志向というやつだ。ゆえに商業区は存在する。
また、今の法的仕様では、電子ポータルで人を転送するのは住宅区や商業区・労働区といった街内部の転送のみであり、他の土地への転送を使えるのは一介の要人のみとされている。
だから旅行もバーチャルでない限りは自分で出向くことで趣があるし、車や電車は進化して形を変えつつも必要なものだと思う。

さっきまで、そんな変哲のない日常が続いていた。
それが閃光に包まれたかと思うと、暗転し、気が付けばおぼつかない足元に転倒して天を仰ぐ。
轟音と稲光。天候はどう見ても雷雨で、あたりは木の板張り。そして縁に打ち寄せる水。べたつき加減から考えるとこれは海水だろう。そして安定しない足場。
つまり。察するに自分は嵐の中の船上にいるのだ。

 

 

小さな姉弟は船内の食堂の樽の間に座り込んでいた。大きな目はキッチンに散らばった食べ物を見つめ、顔に不釣合いな大きく横に広がった口でパンをかじっている。
「……ゆれるの……」
外からは轟々と雨や風の音が打ち付けているのが聞こえてくる。見知らぬ場所に突然放り出されたトケイとゲッコーは、その場から動くことなく父親を待っている。
「おむかえくるかな?とおちゃん」
何かに乗っていることはなんとなく想像できた。今の今まで父親と散歩をしていたのだが、どういう経緯か閃光に包まれた瞬間このキッチンに来ていた。ならば父親もまたここに放り出されたのではないだろうか。すれ違いよりは待とう、姉弟はそう考えたのだった。
足場が悪くとも、転ぶことはない。二人はヤモリの獣人だ。床に足を吸着させているため滑らないのだ。
「ひかってる?きれい……」
姉のトケイがつぶやくと、パンをかじっている弟ゲッコーも姉の事を大きな目を見開いて頷きながら見つめている。
二人は白い光に包まれ、父親を待ったが、彼がここに現れることはなかった。

 

 

階段のやや下のほう。
整った顔の……青年というには若く、少年というには少し大人びた獣人の男子は気絶している。
滑らかな肌と美しい白金の髪はまるで物語に登場する王子のような様相だ。
彼もまた何処からか飛ばされ……船体に打ち付けられた。
そうしてそのまま彼―――は目を硬く閉じ……船に揺られていた。

 

 

唐突に乗り込んだわけではない例外が二人ばかりいた。
鳶色の瞳、どこか古風な感じのするいでたち。腰まである黒髪の小柄な少女……に一見見えるが彼女はれっきとした成人である。
彼女……イズミが船に乗り込んだ時、船内で細マッチョの紳士そうな男とぶつかる出来事があった。
その際に、
「申し訳ない、大丈夫ですかな、小さなお嬢さん。考え事をしていたものでな、怪我はないだろうか」
などといわれる程度にはよく少女扱いされることは間違いない。
……そんなのんびりした出足から一転。
「こんなに荒れるなら……ぐっ……後日にすれば良かっ…ぐぐぐっ…」
乱流に揺られること数刻。
情報ウィンドウが機能しないので、時間の流れが良くわからない。
彼女はアンバーフォートで鍛冶屋に生まれ、技術を伸ばす為に旅を続けている。フォグワール付近の辺境の島から物見遊山気分で船に乗ったはいいのだが、実の所行き当たりばったりの旅ゆえに行き先も確認せずに思い切って乗り込んでしまったことを今は若干後悔している。
だが乗ってしまったものは仕方ない。今はあまりに揺れる船内の個室で身動きもとれずに、ただ小柄な体を放り出されぬよう必死に手すりにつかまって耐えるのが精一杯だ。
(伝説の……かの武具を……見つけるまでは死ねぬ……)
心にともる火を繰り返し刻み、いざとなったら泳いででも岸にたどり着こうという心積もりだけはある。
彼女の瞳に諦めの兆しはなかった。

一方の細マッチョの方はさらに深刻だ。
フォグワール軍服の中でも白を基調にしたそれは聖騎士を生業としていることを現す。
甲板の市民を避難させようと上がったはいいのだが、波をかぶった軍服はすっかり水を含んで重さを増し、さらに足場の悪さから自身もその場から身動きが取れなくなってしまったのである。
それでも船内から持ち出した備品でできる限りの救助に当たる努力はした。
「このロープで柱と体を縛っておくのだ!」
要人を護衛する職にあっても、一般人の危機を見過ごすわけにはいかない。
根っからの真面目な気質が聖騎士・レオニードを動かしていた。

 

 

(これは……試練でしょうか……!!神よ!)
シスターの少女、イーリア・イルジャンテは必死に柱にしがみつき、それでも銀のロザリオだけは放すことなく神に祈っている。
ここへたどり着いたのはきっと髪の導きなのだと信じた。そうして流されるままに甲板でのどかに空を仰いだ瞬間に―――
空は瞬く間に暗黒に包まれ、激しい稲光と打ち付ける暴風雨に、船内に戻ることもできなくなってしまったのだ。
(神よ!!どうか、この船の皆をお救い下さい!!)
イーリアは教会に拾われて育った孤児である。教会は大きく、大司教や姉弟子たちは幼い時は世話をしてくれたが、物心付いたときからほぼ自立を促された。
ゆえに共同生活をし、神や他者に対して奉仕活動をする、という理念はあっても家族という概念はほとんどなかった。
だから、イーリアにとっては神こそが己の父であり、母であり、生きとしいけるものは皆助けるべきものなのである。
しかし小柄な少女がこの状況を耐えるにはいささか厳しいものがあった。腕は痺れ、段々力がぬけてくる。
逆側にいる男性が何か叫んで……ロープを投げてきた。おそらくこれで凌げと言っているのだろう。
(神と優しき信徒のお導きに感謝致します……どうか、貴方様もご無事で…・・・)
助けてもらったことで少しばかり生きる活力が沸いてくる。体と柱をロープで結ぶと、なるべく姿勢を低くして風雨に耐えるのであった。

 

 

グラデーションの利いた金髪が荒れ狂う風に散らばらされている。
サイドハーフアップに結っていたのだが、この暴風で髪飾りがはずれてしまった。船上を転がったせいでメイド服もビシャビシャになっている。
けれどそんなことは気にしていられない。
どうにか転がって船内に退避はできたが、それでも足元がおぼつかず仕方がないので這って移動をする。
船体が傾くので移動よりも耐えている時間のほうが明らかに長いのは多分気のせいではない。
空いている扉の向こうに子供が見えた。
何かを食べながら……よかった、被害は受けていないように見える。かなり元気そうだ。
それを確認すると体力の限界か、ランレッタは視界が段々暗くなって意識が遠のいていった。

 

 

黒いスーツの男は楽観的だ。
「もう、やぁねぇ。嵐に遭っちゃうなんて……」
頬に手をあて、キール・マクシモヴィチ・ユリエフは誰も居ないのに大げさに困ったポーズをしてみせる。
「ま、気にしてもしょうがないし……ね」
くせっ毛の黒髪も、エルフの容姿に相まってそれがかえって艶っぽく見える。
「いっそ、何も考えなくていい無人島にでも漂流してくれればいいかもね……」
だが人懐こそうなその垂れた瞳の奥底は全く笑っていなかった。

 

 

「なぜか私は船にいて、それから……能力が使えなくて、この船のことは良くわからなくて……」
彼女は右に左に揺れる船内で、起こった出来事を必死に……今では珍しくなった『紙のメモ』に書き取っている。
15歳のバースデイに父と兄にせがんでどうにか化学合成紙とペンという高級品を手に入れた。それ以来、学芸員の給料はほぼ紙を買うことに使うほどに紙の虜となっていた。
ウィルヘルミナ・シュルツ。通称ウィル。彼女は子供のころ歴史館で見た『紙の展示資料』に高い関心を持ち、その魅力に取り付かれてはや数年。
学芸員の安月給で買える紙の量はたかが知れているので、紙には常に細かい文字でぎっしりと書き込まれている。 
彼女の能力は学芸員としてきわめて優秀であり、『物の過去を見ることができる』のである。
ゆえにこの船の歴を辿りここに自分がいた原因を突き止めようとしたのだが、能力そのものが働いていないのか、あるいは何か反発する要素が働いているのか……。
そんなわけで後々何かわかるかもしれないと思い、こうやって状況だけでもメモを取っているのである。
「うぅ……気持ちが悪くなってきました……」
しかし、文字を並べていくたびに揺れと鬱蒼とした空気に酔ってしまい、ぐったりと朦朧してしまうウィルなのであった。

 

 

見たところ、この船は木造の観光船のようだ。
軽量硬化鋼の頑丈な定期船が主流の現在、こういった船は観光目的でしか使用されることはない。
唐突な環境変化に驚きはしたが、嵐という過酷な状況が青年ヨーナ・モを冷静にした。
リサイクル業者として、悪天候時の危険な建築の解体業を依頼されることも少なくない。
「……帆船の構造なら本で読んだことがあります」
船はオートで、船長や船員が乗っていることはあまりない。緊急時はセキュリティが働くはずなのだが、それがないということは機能していないのだろう。だから彼は心を決めた。
「解体、してみよう!」
構造を知っていても、帆のたたみ方は正直専門家ではないので知らないのが現状だ。
少なくとも今のままでは強風に煽られて転覆するのが関の山。ならば物理的に外すしかないだろう。赤の三白眼が鋭さを増す。
甲板を這ってなんとか帆の元までたどり着き、背中のバールを構えると、メインウィンドウ画面を呼び出し能力ツールをオンにした。
だが。
空しくもエラーの文字が表示されているばかりだ。セキュリティが働いていないのと関係あるのかもしれない。
それでも。
バールを板と金具の間にこじ入れ『てこの原理』でその金具をはずそうと、思いっきり取っ手側に体重をかけた。
「……グ……ぐぐぐぐ!!!」
足場の悪さに上手く体重を乗せられず固定された金具は全く動かないかのように思えた。が、次の瞬間、体が白い光に包まれたかと思うとバールが一回り大きくなり、金具を跳ね上げたのだ。
「わ……っとっ!!!」
かけた体重にバランスを崩し縁まで転がった痛みよりも、起こった事への戸惑いの方が強かった。けれどそんなことを考えている場合ではない。すぐに帆へと向き直ると、別の金具に取り掛かった。
「三つ……四つ……五つっ!!!!」
すべての金具を引き剥がすと、帆は勢い良く宙へと吸い込まれていった。
「……これで少しは……」
煽られていた船は、なんとか転覆だけは免れそうだ。
けれど嵐は収まる様子はなく、荒れ狂う波にひどく揺さぶられながらヨーナは……そして乗客たちは体力を削られていくのだった。